2013年12月22日日曜日

内田樹氏のお話を聞いた話−2

続き。
ー書き手と読み手の幸せな関係

言説や言葉について、
明確な宛先は存在しなくつくるものである、と。

この世の中ではたくさんの人がいろんな文章を呼んでいるが、
その中には自分宛てのメッセージというものは含まれておらず、
自分宛てだったらいいなって思っている他人へのメッセージだという。
それを、あたかも自分宛てに書かれている!と錯覚してしまうと。

また発信と受信の間に生まれるクリエーションというのは、
相手が知りたいと思ってそうと思っていること、
自分がまだ十分に詳しくないことを投げ込む、
そういう「存在しないもの」のやりとりの中で発揮される。

相手の知的渇望にフォーカスし、
まだ「ない」ところに投げ込むことが重要。
投げ込むものも、自分が熟知しているものより、
知りたいと思っていることを投げ込むとそのやりとりの中で、
発信者自身もその情報を収集していくことができ、
クリエイティブなやりとりができるとのこと。

植物で例えると、
芽が伸びているその少し上あたりを狙って投げ込む。
そうすると、芽がシュっと伸びる。そんなイメージだと。

読後感として、
「これがまさにわたしの読みたかったもの!」
「この人は私が言いたかったことを、表してくれている!」
というのは、まさにその素敵な関係が現れた結果らしい。

すでに知りたいと思っているところに、
知ってるものを提供するのではなく、
言葉を発信し受信するということはもっと前のめりなゲームなのだと。

読者像は友人などで想定するけれど、
その人の中には「ないもの」を書いていくことが重要なのだと。

書き手と読み手の幸せな関係、
健全な読書というのはそういうことをいうのではないかと。

なるほど。
前述の読後感が得られる本に出会ったときはやはり嬉しく、
しばらく浸っていたり、引用したくなってくる。
これはそういう私の中になかったものが埋められたことに対する
悦びだったのか、と。実感。

そういうことを意識して前のめりに文章を書いていくと、
もっと私の文章も面白くなるのだろうか。

今後に乞うご期待。。。。ふふふ。


内田樹氏のお話を聞いた話−1

先日のこと。
鉄道芸術祭という中之島アートエリアB1で開催されているシリーズのイベントの最終回が内田樹氏だということを知り、ぜひとも一度直接お話しを聞きたいと思っていた一人なので参加してきた。
(ちなみに、ぜひともお目にかかりたい人もう一人は村上春樹)
(ちなみに、鉄道芸術祭は松岡正剛氏の編集工学研究所がプロデュースですよ)

「関西に住む読み手たちへ」というタイトルでのお話1時間半。

話は大きくわけると2つ。
ー現在の出版状況のあかんとこ、本来の言説のあるべきところ
ー書き手と読み手の幸せな関係

まず1つ目。
読み手の地域性は特に意識したことはないが、
出版については日本の出版社の99%が東京に集中している状況とのこと。
そしてビジネスソリッド中心になっており冒険しない。

そして雑誌も新聞も文芸書もどんどん売れなくなっている。

なぜか?
雑誌は対象とするマーケットやターゲットをどんどん具体化していっている。
例えば、AERAだと東京で働く子持ちの女性。年収はこれくらい。とか。
具体的にしていくことで、明確なメッセージが打ち出せたり、手に取られるんですよ、広告家さんもいう。
これはそもそも、
「ありもののマーケットをターゲットにしている」事自体が間違いのもとだと。
すでにあるマーケットに合わせていっていると、
どんどん具体的にするにつれ縮小していくのは必然。

さらに、もう一つ。
発信者が個人の身体を提供していない。
誰かがが入っていること、なんとなく言われていることを、
そういうことが言ってそうな人に喋らせて書く。
そこに創り手としての主張や主義は全くないという。
昔の雑誌(特に週刊誌)はものすごくとんがっていたそう。
持っている重みが全然違いますよね。

日本の言説の状況は、
平均的な言論的リテラシーは他国に比べて高い
しかし、如何せん数が多い
よって、対象をしぼりきれずぼやけてしまうという特徴があるという。

関わる人が多くなるとどうしても制約が増え、
またそれに加え創り手が個人の身体を提供しなくなる(人物不本意になる)と、冒険をしなくなる。
新しいことはやってうまくいかないと責任を個人として取らなければならない、だから怒られないためには「他でもやっていることをやる」。

そういう、負のスパイラルらしい。
確かに私達は自分の意見や主張をきっぱりと自分名義で発信することがめっきりと減った気がする。
SNSがあることで発信はしやすくなったけれども、
その内容は考えてでてきた自分の意見ではなく、
なんとなく見つけて「そうそう!」と思った誰かの意見。

リツイートリツイートリツイート。

そりゃ、読み手のリテラシーもさがりますね。
「誰のかよくわかんないの意見」を読むことに慣れてしまって、
それをさも自分で考えたかのようにつぶやいてみる。
それに満足しないようにしていきたいと改めて。

2こ目の、読み手と書き手の幸せな関係はまた次に。


2013年12月19日木曜日

ブログを書くことにしました。

さっき最初の投稿したばかりですが、改めて。

ブログを書くことにした。

「書く」ことをもう少し自分の日常に置いておきたいと思ったので。
Facebookはなんか疲れそうだったということと、
evernoteだと刺激に欠けるなとおもったので、
日記はめんどくささが首をもたげそうなので、
ブログという形にすることに。

ふっと思ったこと、
やんわり考えたこと。

書きなぐるのでなくて、
私でない誰かに伝えることを意識して綴っていきたいと思う次第。

まぁ、ぼちぼち。

図書館的。

“図書館”って何なんだろう?

去年の4月から司書資格を取るためにぼちぼち勉強する中で時々考えていたこと、また今年の4月からまちライブラリーにて仕事をする中でぼんやりと考えていたこと。

特に8〜10月と図書館関係の方と関わり、話をする中でより一層明確な問いとして渦巻いている。今も。

今それを言葉にしてみると、
「つながっていける場」と「保存していくこと」なのかなと。

1つめ。
こういうことしたいな、こういうこと知りたいなという思いに対して、持ちうるものまたはあるかもという可能性を示すこと、ただ示すだけじゃなくて一緒にやる。
そういう世の中の情報に対して広くアクセスできる場であるということ。
情報という言葉には、書物だけでなく電子的なもの、人間や企業だって含まれる。
またこんなことが世の中にあるんだよ!どう思う?ってというかけること。
アクセス可能ということを、テーマを絞って見せて伝える。

2つめ。
その場所その土地の物語を、人間が忘れ去ってしまわないうちに保存する。
全国的な話題ももちろん大切だけど、その土地の文化や言葉はその土地で保存していかなければ残らない。その役割を担っているという自覚と、その土地の人への周知。


この2つをバランスよく行えると一番理想じゃないかなと、今の私は考える。
でも、どちらかに特化している図書館があっても良いと思う。

私の関わっている図書館的なことはおそらく前者。
でも前者でも示す”情報”が必要。
私が提供できる”情報”ってなんだろう。

「人」なんだと思う。
関わらして頂いている人同士を有機的につなげていくこと。
これを誰かに無理をさせることなく自然に行っていけたら。

人見知り兼口下手の私にはまだまだ程遠いが、
目指していきたいところ。